[邦文写真植字発明100周年記念] 対談 橋本和夫×中村征宏(聞き手:雪 朱里) 第3回 石井書体という存在

写研から数多くの新書体が生まれた1960~1990年代にかけて、その誕生に大きくたずさわったのが、橋本和夫さんと中村征宏さんです。橋本さんは写研における書体デザインの責任者として、その時期に生まれたほぼすべての書体の監修を担当。そして中村さんはフリーランスの書体デザイナーとして、数々の斬新なデザインを生み出し、時代をつくってきました。内と外からそれぞれ写研書体を支えたおふたりに対談していただきました。今回は第3回目です。(聞き手・文:雪 朱里/写真:髙橋 榮)
第1回 / 第2回

超極太ゴシックとして生まれたゴナ

これまでの仕事をふりかえる中村征宏さん(左)と橋本和夫さん(右)

—— 中村さんといえば、ナールと並び、時代を代表する書体「ゴナ」がありますね。

ゴナは、最初に石井裕子社長からお話をいただきました。「これまでよりも太いゴシック体の試作品を出してみてください」とのご依頼でしたので、24文字ほどつくって提出しました。ひらがなは2種類つくりまして、そのうちの一つが、現在使われているひらがなです。「では、この太さ、このひらがなで5,800字つくってください」と。それがゴナUになりました。極太書体なので、80mm角の原字用紙を使いました。

1975年に発売された超極太ゴシック「ゴナU(UNAG)

—— 橋本さん、このころ、こういう太い書体が求められているという判断が、写研のなかであったということですか。

そうですね。ゴナUでぼくが印象に残っているのは「き」と「さ」ですね。極太すぎて、ループのところがつなげられなかった。だからどうするかというので、ここだけは中村さんから相談を受けたんです。
「き」「さ」はつなげずに離す場合、ふつうはつながるように形をつくるか、ハネをつけるかです。でも、この太さだとつなげられないし、かといってハネをつくると、この書体のスラッと洗練された雰囲気に合わないんですね。そうしたら中村さんは、縦棒をのばして、ハネをなくした。

極太ゆえに独特のかたちがうまれたゴナUの「き」と「さ」

この太さで書くともう、こうとしか処理のしようがなかったんです。それ以外の方法がなかった。

—— その思い切りですね。ナールのときもそうでしたが、中村さんは、すごくバランスの取れた美しい形で、「これしかない」ところを見つける。ゴナについては「な」がやはり特徴的といわれることが多いと思いますが、他の形とも迷われたんですか。

そうですね。点にしたり、もっと出っ張ったり、いろんな形を試して、この形になった。

ゴナのひらがなは2種類提案したんです。そのなかで採用されたのが、現在の形。もう1案のほうは、もっと標準に近いかたちでした。私自身も、字形としてはもう1案より、こちらのほうが好きですね。

中村さんはゴナのひらがなを2種類制作していた。採用されたのは左

—— ゴナUはナールの逆で、極太ゆえの難しさがあったと思いますが。

画数の多い漢字を、全体が細く見えてしまわないように気をつけながらつくるのに工夫が必要でした。たとえば「機」。全体をいとがしら(幺)ぐらいに細くしてしまうと、違う書体に見えてしまいますので、どこかに太さを残さなければいけない。太い部分を残しながら、細めるところは細めて調整していく。

—— 最大の太さをどこかに残すことで、印象としては太さがそろうと。それから、太ゴシック体は、横画が完全にまっすぐではなく、両端が広がるラッパ状になっているものも多いですが、それが完全にまっすぐであることも、ゴナの大きな特徴ですよね。直線でありながら優しい雰囲気をもっている、ふしぎな書体だなと感じます。

この線を選んだのは、欧文との混植を考えたからです。UniversやHelveticaと混植したときに違和感がないように、この線質に決めました。

—— 監修のうえでは、なにか難しい点はありましたか?

ほとんどなかったですね。ゴナUはナールのような細い書体に比べると、確かに太さの取り方は難しいかもしれませんが、形としては取りやすい。空間をどんどん埋めていけばいいわけですから。

まったくそのとおりです。

ナールのような細い書体は、空間をどう取るかですから、かえって難しい。
ぼくがゴナUでいつも思っているのは、「一番太いゴシック体」といいますが、その太さを感じさせず、つぶれず文字が読めるのが一番の特徴なんです。だから「ゴナUは特異な書体」といえる。
たとえば「風」なんかも、もっと四角くしてしまいそうなものだけど、ふわっとした風らしい軽やかな印象がありますよね。

いえ、「風」にしてもスペース的にこういうふうにしか書けなかったんです。これしかできない。もう、この太さですと、中の「虫」を細くして、こんなふうにしか書きようがない。かぜがまえ(几)には太さを残さないといけませんので、中で調整するという。

自分でデザインするとわかるんですけど、「風」の右側のハネがありますよね。これ、こんなに太い書体だと、だいたいだれでも悩むはずなんです。

悩みました。

ゴナUみたいにピンとハネられないと思うんです。ハネをつくれなくなっちゃうとか、とがってしまうとか。こういう太い書体をつくるときには、たいていの人が「風」のハネで困っちゃうんです。ところが、ゴナUはそれが困っていないんですよね。

いえいえ、困りました、本当に。困りながらつくりました。

いやいや、見る人に「困っていない」と思わせるのが、すごいんです。それが、要するに中村さんのデザイン力なんですね。

「困ってました、困ってました」と中村さん(左)/ゴナのすごさを語る橋本さん(右)

—— 同時期発売の大蘭明朝(UM)も「明朝体で一番太いものを」ということで、橋本さんが制作されたそうですが。

大蘭明朝は、ふつうの明朝を書くのと同じです。太いほうが易しい部分もあるんですよ。たとえば「大」の細い字をつくろうと思ったら、難しい。太い場合はマス目を埋めればいいわけですから、どちらかというと、細くて空間があればあるほど難しいんです。
中村さんが太いゴシック体をつくってくださる。これまでにない太さのものですから、それに対応した明朝があったほうがいいんじゃないの、ということでつくったんです。あくまでも、つくった動機はゴナUです。

『写研 38号』(1976年2月)「新書体・新文字盤紹介」より。前年(1975年)秋の写研フェアで発表された、ゴナU、大蘭明朝を含んだ7種類の新書体が紹介されている

—— ゴナUあっての大蘭明朝、ということなんですね。1976年2月に刊行された広報誌『写研 38号』の「新書体・新文字盤紹介」を見ていると、ゴナU(UNAG)があり、大蘭明朝(UM)があり、本蘭細明朝(LHM)もあり……。それから、これは中村さんではなく、写研内部で制作されたということですが、ナールLやM、Oもある。1970年にナールが石井賞を受賞してからの10年間は、書体デザインが大きく動き、新しい書体がどんどん、それまでにまったくなかったようなものが生まれていた時代なのだということを、この1冊を見ただけでも感じます。

それは結局、タイポスから始まった。

そうです。タイポスから始まった。

1969年のタイポス発売という一つのきっかけがあり、第1回 石井賞 創作タイプフェイスコンテストで中村さんのナールが1位になったときから、新書体ブーム、そして多書体化が始まった。そこから約20年間の密度が一番高く、2年おきに開催した写研フェアに合わせて、いくつもの書体をつくっていました。写研フェアは本来、機械の新機種を発表する場だったんですが、新書体・新文字盤もありますということで。写研の写植機のユーザーにアピールする展示会だったんですね。

—— 多書体化の時代ですね。活版印刷に用いられる金属活字では、新しい書体をつくるのに大変な時間とコスト、できあがった活字を置く場所も必要でした。それが写植になって、新しい書体を格段につくりやすくなった。その写植が普及して、多彩な書体デザインが花開いていったんですね。

石井書体への思い、石井茂吉という師

—— 今日の対談が始まる前に、中村さんが「今日どうしてもこれを聞きたいんです」と質問項目が書かれたペーパーをお配りになっていました。

私、石井茂吉先生の書体制作の全容を知りたいと思いまして。橋本さんは石井先生に直接指導を受けられたということですので、それを教えていただくために、名古屋から来たんです。

「石井先生の原字制作についてどうしても聞きたくて」と、橋本さん(右)に聞く中村さん(左)
石井茂吉が原字制作に使っていた道具。つけペンや、自作の修整刀などが見られる

石井先生は、下書きはおやりになったんですか?

ないと思います。スケッチはされたと思うんですが、そもそも石井先生の原字は48mmの大きいものではなく、17.55mmのこんな小さい……。

え? 17.55mmって。17.55mmで原字を書いていたんですか? 橋本さんが最初に手がけられたという石井宋朝(LS)の原字は、もっと大きいですよね?

石井宋朝が特殊なんです。それ以外の石井書体の原字は小さかった。5万字書いたという、諸橋大漢和辞典のための明朝(のちの石井細明朝 LM-NKS)とか……。ぼくはまだ入社していなかったときですよ。

5万字のときにはまだ?

最終巻の索引だけはすこしたずさわらせてもらいました。それは17.55mmで原字を書きました。石井先生は、つけペンを使ってスッと書いておられた。方眼紙ではなく、おそらく印画紙だと思います。文字の修整は、手作りの修整刀で削っておこなっていた。

17.55mmだなんて、そんなに小さく書けるんですか。

だから、ルーペをのぞいて原字を書いておられた。ぼくが写研に入社したのが1959年で、亡くなられたのが1963年。先生が亡くなったのは、ぼくが28歳のとき。ぼくが石井先生の下で仕事をしたのは、だいたい2年半ぐらいのことなんです。

—— これが、石井茂吉さんが書かれた大漢和明朝の原盤(文字盤のもとになるもの)だそうです。

『大漢和辞典』(大修館書店)に用いられた細明朝の原盤。石井茂吉の手による原字が金属板に貼り付けられている
大漢和明朝の原字に見入る中村さん

すごいな……。こんな大きさで書けるものですか?

すごいですよね。でも、書いていましたよ。ルーペがあるじゃないですか。

ルーペがあったとしても、筆に限界がありますよね。

そこはやっぱり技術じゃないですか? 活字の時代に、そのおおもとになる種字を活字と同寸・鏡文字で彫った職人さん(種字彫刻師)が、特殊な技術を持っていたのと同じことですよね。9ポイント(約3.175mm)の文字だって彫っていたわけですから。いまの感覚では「こんなの彫れるの?」って思ってしまいますけど。だから中村さん、「こんなことできますか?」っていうのは、今の人の言い方で、その当時はそれがあたりまえだったんです。

でも、私は石井先生のこの大きさで原字を書きなさいって言われたら、お断りします、絶対に。石井細明朝のこの横線は、あのつけペンで引いていたんですか。

そうです。ほとんどフリーハンドです。ぼくらは溝引きを使っていたんですけど、先生も溝引きは少ししていましたが、ほとんどフリーハンドです。

溝引きに使う丸棒は、ご自分でお作りになったらしいですね。

修整刀も、みんなそうですよ。自分でお作りになって。

それにしても、この大きさで……。

師とつくった唯一の書体・石井宋朝

ぼくは写研に入社した最初に、石井宋朝の原字を担当したんです。

うわあ。

橋本さんが石井茂吉のもとで手がけた「石井宋朝(LS)」の原字

宋朝体はもともと、名古屋の活字メーカー・津田三省堂から頼まれたんですね。ベントン彫刻機による彫刻母型のための原字でした。ベントン彫刻機では2インチ(約50.8mm)の原字を使うので、そのサイズで書いてくださいと。写研に入ったとき、大漢和辞典のための石井細明朝の原字を見て、17.55mmの原字なんてとても書けない、と思いました。ぼくがモトヤでやっていたのは2インチの原字でしたから。その大きさで書いていた人間が、17.55mmで書けって言われても……。

絶対できない。

そう、これはできまへんわ、っていうことになっちゃうわけですよね。でも、たまたま良いタイミングで石井宋朝をつくり始めて、写植だけでなくベントン彫刻機のパターンもつくるかもしれないからということで、ベントン原字に合わせたサイズで原字を書くことになった。だからぼくにとっては慣れ親しんだサイズだったんです。
当時、写研には原字用紙というものがなかったので、印画紙に原字を書きました。これ、みんな削ったあとがありますよね。修整したあとです。
石井先生のことは、くわしくはわからないんです。ぼくは先生の横について仕事をしたわけじゃなく、先生はご自宅の書斎で大漢和明朝の原字を書いたり、修整したりなさっていた。ぼくは写研の仕事場で原字を書いて、それを先生のところに見せに行く。先生に監修していただくわけですね。見ていただいて、持ち帰って修整して、また見ていただいて、OKになるまでそれを続けた。

—— ここにある石井宋朝の原字は、橋本さんが書かれたものですか。

そうです。ぼくが写研にお世話になり始めた、最初の原字がこれです。

石井宋朝体について語る橋本さん

—— 中村さん、石井茂吉さんの大漢和明朝の文字原盤から目が離せないご様子ですね。

いやあ……。これはもう、人間業ではないですね。ショックを受けました。このハライの先端の細い部分。自分だったら、こんなのを書けるとは思えません。

それはもう、先生の一番こだわっておられたところですよ。ぼくはとにかく「橋本くんの字には味がない」と言われたものです。

第4回を読む(2025年4月公開予定)

橋本 和夫

はしもと・かずお。書体設計士 1935年2月、大阪市生まれ。
エッセイ「文字は空気か水のようなもの」

中村 征宏

なかむら・ゆきひろ。書体デザイナー 1942年 三重県三重郡生まれ。
エッセイ「私が手がけた写研書体」~ナール誕生秘話~

雪 朱里

ゆき・あかり。著述業 1971年生まれ。
エッセイ「石井茂吉の描いた未来」